2013年10月5日土曜日

なぜ日本人はドイツ車が好きなのか?

  ドイツ車が好きですか?と聞かれたら、好きなクルマもあるし嫌いなクルマもあると自分なら答えます。まあ冷静に考えてこれ以外の答えがあるのか?という気もするのですが、不思議な事に、日本には「ドイツ車好き」という謎の思想を持った人々が多いように感じます(しかもプロのモータージャーナリストにこういう人がたくさんいます)。この思想・主張の本意はおそらく「(日本車よりも)ドイツ車が好き」ということなのでしょうが、この意見には私は真っ向から反対します。

  ドイツ車と日本車の統計を取ったときどちらが「工業製品」として優れているのか? 私の考えでは、ドイツ車の底辺が1でテッペンが10だとするならば、日本車の底辺は4でテッペンは12くらいではないかと思います。これを裏付ける客観的な資料はいくらでもあります。2013年の名目GDP比は日:独=10:7くらいですが、販売台数は日メーカー:独メーカー=5:2くらいです。平均販売価格のデータがないのでボラティリティはありますが、北米や欧州での価格は日本車の方が高いくらいです。他にもJDパワーの評価や衝突安全基準などあらゆる点で日本車の優秀性は客観的に証明されています。しかし、インドで競合しているVW・ポロとスズキ・スプラッシュのいったいどちらが優れているか?なんていう議論には、正直言ってそれほど興味はないです。

  日本市場で競争しているドイツ車と日本車の優劣の現在地点はどうなのか?ということにおいて、先述のドイツかぶれジャーナリストが語る虚言や空論がそのまま日本のクルマ文化を形成しつつあることには危機感を覚えます。ドイツ車の本質を語ることなく、日本車の揚げ足をとり「ドイツ車>日本車」という結論ありきで論じることに何の意味があるんだろうってカネ払って読んでいる立場からふと思ったりします(まあ自分のブログ記事も似たようなものですが・・・)。

  実際に日本に輸入されるドイツ車は高級モデルが大半なので、7~9くらいのクルマが多いです。まあ4や5のレベルの日本車と比べれば良く出来ているでしょうが、価格も2~3倍高いのだから当たり前かなという気もします。

  ちょっと前までドイツ車至上主義のジャーナリストのテキストには「車体剛性」や「油圧ステア」という紋切り型の文言がならび、日本車を次から次へと一刀両断していたようですが、今日ではそんな「定義」は全てなくなりました。ドイツメーカーが日本車をお手本に軽量化と電動ステアの改良に励むようになってきましたので・・・。

  福◯◯◯郎というジャーナリストは、ドイツメーカーの安易な日本車追従を「モラルハザード」と断定して厳しい意見を述べていましたが、そもそもドイツ車を「車体剛性」や「油圧ステア」といった言葉で「記号化」=「定義」してしまった日本人の認識が大間違いなのではないかと私は思います。先ほどの福◯◯◯郎氏は「定義」を踏み外したドイツ車を「似非」と断罪したようですが、おそらくドイツ人からしたら「コイツら馬鹿じゃねーの」と失笑を買うレベルの意見じゃないでしょうか・・・。

  ニーチェの金言に「定義できるのは、歴史をもたないものだけである」とあるように、ドイツ人は「歴史あるものは定義ができない」ということがよく解っています。ドイツ車も日本車も韓国車もそれぞれに歴史を持っているので「定義」できないというわけです。クルマを支配する第一義的な原理は「定義」でも「物的価値」でもなく「行動」だと考えるのがドイツでは一般的です。日本の金持ちが家の前に停めてる400psのAMGや911ターボはほぼ「定義」や「物的価値」としてしか意味を成しませんが、同じクルマがドイツで所有されればそれが「行動」という意味を持ちます。そしてアウトバーンを日本に作らないかぎりこの格差は埋まりません。

  正直言って、日本でクルマを作っている人とクルマを論じている人の間には天と地ほどの大きな隔たりがあるように感じます。日本車の1台1台にもドイツにおけるドイツ車のように「行動」の哲学をしっかりと感じることができます。しかしドイツ車至上主義のジャーナリスト(誰だよ?)の手にひとたび掛かれば、まったく無意味な「定義」で測定されたあげく、「せいぜい☆3つだな・・・」なんて評価をしたりしています(もちろん評価すること自体は自由ですが・・・)。その度に私は心の中で呟きます「オマエらみたいなクルマキ◯ガイなブサ◯クオヤジにまともな人の幸福とかわかるのか?」と・・・。

  

          ↓「☆3つ!」とか言ってんじゃねーよ・・・日本人の恥さらしが!
  

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